熊
もう何年も前。百で効くのかな。いやもっと前だ。そういえば、まだ鬼さんが山を創ってる最中だった頃だから、陸、いや、漆百も前かもしれない。
そんな頃。私は神様に、一目惚れしたのです。
あの頃はまだ、今ではあまり見なくなった『異』が多かった。所謂、妖怪とか、心霊とか、化け物とか。基を正すと、異というよりはあれもあれで、私たちや草花と変わらない、一つの命の形だった。だからこそ怖く恐く、危うい形が多かった。
それに、私は、命を奪われかけていた。
あぁ、自慢の毛皮が。せっかく今日も毛づくろいしていたというのに。けど、私が好きな鈴蘭に囲まれているのなら、なんか、いいかとも、諦めてきている。ごめんね、せっかくの白い鈴蘭が、赤く。
そんな緩慢な思考も、大きく体につけられた爪痕によって、徐々に薄れていっているのが分かった。これなら鬼さんのお手伝いでも行くんだったと、面倒くさがりな私が何を言うかー、と自答する。私自身を卑下する。悪い癖だ。
この悪い癖、最後まで治らなかったな。
ああ。
視界が遠退く。
無音が迫る。
本来、それが最後の思考であったはず。
それなのに、目を閉じたと思ったのに、気が付いたら私は鈴蘭畑の中で『起き上がっていた』のです。
あんなに痛かったのに、ちっとも痛くない。
あんなに深い傷だったのに、まったく跡がない。
自慢の毛皮も、朝に毛づくろいした後と一緒。
「またね」
耳元で声が聞こえた。女子の細くきれいな声。
はっとして振り向くと、視界の端に赤い袴がひらひらとよぎり、そこには白い光の粒が、葉っぱのように、鳥の羽のように舞っていた。
「あぁ、それは神様だ。俺も会ったことがあるぞ。」
え、ほんとに?
と、鬼さんの隣でぐでーっと寝そべったまま、昨日のことを相談していました。
「あぁ。あの神様、見た目はかわいい女子稚児のくせ、俺は土俵で負けたんだ。」
なんと。こんなに筋肉の塊のような鬼さんが。
「そうだ。筋肉はいいぞ。だが、あの神様に負けたのは事実だぞ。もちろん負けじと追いかけたさ。けれどもあの神様が行ったはずの方向に向かっても、一向に見つからなんだ。」
なんと。こんな筋肉の塊のようなそしてとても足が速い鬼さんが。
「そうだ。筋肉だぞ。鬼さんだぞ。ただそのおかげで俺は、今ではあの村の人間と仲が良くなったんだぞ。追い疲れてたまたま休んだ柏で、あの村人に初めて見てもらえたのだ。同じくらいの女子稚児に泣かれたが、誤解は解けたし、何しろ今ではとっても懐かれているのだぞ。」
なんと。こんな筋肉の塊のようなそしてとても足が速いのに鬼だから本当は視ることができないはずの鬼さんが。
「そうだ。筋肉が一番だぞ。だが俺は今、楽しい。村の人間と話をして、いろいろ教えて教えてもらい、その楽しい恩返しをするために、俺は今この山を創り上げているんだ。もしかしたらあの神様は、話に聞く白神、なのかもしれないな。」
白神。
相変わらず筋肉の塊だけども、山不死である鬼さんが云うのだ。きっと本当なのだろう。
何しろ、私は命を神様から、また頂いてしまった。何か恩返しがしたい。
そう思って悩みあぐねて、いつしか参百年くらい、経ってしまっていた。
とっくに気が付いていたけれども、私は生き返ったあの日から、死んでいない。本来の熊である寿命をとっくに越えていた。
私もどうやら、鬼さんのような山不死になったのかもしれないと、筋肉の塊である鬼さんは言ってくれた。なによりいつしか、気が付いたら人間のような姿にも成れるようになっていた。
正直なところ、二度目の命をいただいた時点で、私の身にもう何があっても驚かなくなっていたんだろう、と思う。
それならば。
いつしか、また白神様に会えるのかもしれない。
これを糧として、たまに鬼さんのお手伝いをしながら村を大きくしたり、他の村に出向いてお手伝いしたり、悪さをする『異』をあやしつけていた。この頃はどんな『異』が相手でも、最後には打ち解けることができていた。
村の人間には、田畑を作る術、実りを与える術、山を守る術、人を守る術、他にもたくさんのことを伝えたつもり。もちろん、おいしいご飯を作る術だって。
驚くことに鬼さんは、村の人間と所帯を持って、(まさか筋肉の鬼さんが見事なまでに尻に敷かれて)たくさんの子に恵まれていた。村の人間には、鬼さんが鬼だということは今は秘密にしているようで、奥さんくらいしか知らないようだった。
その奥さん、鬼さんとの番になったからか、どうやら私たちのような山不死になっているようだった。たまに奥さんとお会いして雑談するのだけども、とっても楽しい。
もちろん奥さんは私が『熊』ということも知った上で、とても優しくしてくれる。今でいう、がーるずとーく、というやつです。
余談だけど、今でもあのあたりの人間が長生きなのは、ひそかに鬼さんの血を継いでいるからかもしれない。
たしかその頃から、狐の縁(つな)さんが、他の山から移り住んできた。縁さんもいつしか長生きするようになって、たまーにお話ししたりする間柄だった。そのわり人見知りだそうで縁さんが人に化けるときは、いつも私の姿に似せていたから、姉妹なんてよく言われてた。
ふむ。まんざらでもない。えへん。
ただ私と違って、縁さんは番の相手もいるし、この体だから生むまで永くかかるけど、それでも、とよくお腹をさすっていた。鬼さんも鬼さんの奥さんも縁さんも、すごい方だらけだ。
…もしかしたら、白神様は今では安心して、きっと私たちを見守ることにしているのかもしれない。これなら白神様自身が出てこなくとも、きっと大丈夫だと。
これが、私の恩返し、かな。お役に立てているのなら、と、それなら会えずとも、私は何処かよかった。安心できていたのです。
色づく春。
青々と映える夏。
実りが豊かな秋。
大雪で転げ回る冬。
幾度も季節を巡って、辛いときもあれど、幸多き二度目の命を、白神様への恩返しをと。
そんなある日。
大きな異変が起きました。
予兆はいくらかあった、と思う。
山の様子が、いつもの季節と、何か違っていた。
何しろ、空気が大きく、うねっている。毛皮がいつまでも逆立つこの感覚。
次に、大地が大きく震え始めた。
次に、大地が大きく熱を持った。
次に、湖水が湯で上がるように沸騰した。
次に、「ごめん、ごめんよ…」という、あの白神様の泣いた声が消えた。
それに私は思はず吠えた。ハッとした。何百年も待った声が、そんな苦しそうな声で。
どうしたの、神様、どうしたの、と。
すぐさま、大きな爆発音がする。
大気も大地も、その音と共に激しくざわめいた。
まるで、白神様が耐えきれず、悲しみに暮れて泣いてしまったようだった。
はっとして山を見る。鬼さんが長い時間をかけて創った御山の頂上から、モクモクと白い雲が湧いて出てきたのだ。次いで赤い熱い血が、頂上からどくどくと流れ出し、あちらこちらに火が走る。
大きな、とても大きな、噴火だった。
もともと鬼さんが山を創ったのは、いつか起こりうるこれを防ぐためと、白神様が住まうことができるための恩返しをするためだった。
きっと鬼さんがいなければ、もっともっと大っきな被害だっただろう。
だからそこ鬼さんと私は、助けられるだけの命を救った。
つもりだった。
いろんな命に手伝ってもらい、助けた。
つもりだった。
もちろん、すべては助けられなかった。
いや、そんなすべては助けられない。それでも出来る限りのことをと。
その結果、私が知る命、知ってきた命の多くが、消えてしまった。
もちろん、私は泣いた。
大泣きだ。手のつけようもなかっただろう。
鬼さんのいる村も、少なからず被害があった。
けれどもさすが鬼さんと奥さんというところで、「筋肉だ。何とかなる。」「私たちはまだ生きている。なら、やりようはあるさ。」と、自信に満ちていた。
縁さんは、夫さんをソレでなくしてしまった。けれど、それでもと、私よりも早く立ち直り、この子達のためと、諦めることはなかった。親になるのだからと。
同時に、泣いていた私を、励ましてもくれた。
あの三人が居なければ、私はまだ、泣いていただろうに。
それでもと。
なんとかなると。
その思いの一心で、なんとかまたこの山にも命が戻ってきてくれた。
とても時間はかかったし、何度か御山の噴煙もあったけど、今ではもうすっかり、落ち着きを取り戻していた。
鬼さんなんて山不死なのに、少しずつ老けてきて、今ではお爺ちゃんだ。それでも「はは。やっぱり筋肉じゃい」と、相変わらず元気で、今では村一番の百姓だ。
けれど、人としては永く生きた奥さんが、残念ながら病気で亡くなった。それからもうしばらくたつけど、鬼さんは今ではあんな調子で、まだまだ現役のままだろうなあ。
そしてある時。
「熊よ。もう肆百年も昔じゃが、あの大噴火があったじゃろ。」
「ええ。あの時は大変でしたね。ここまで山に命が戻り、本当によかったです。」
「そうじゃな。ワシの筋肉のお陰じゃよ。ああそれでな、あの噴火の『原因』、知りたくはないか?」
「...薄々感じてはいましたけど、白神様、なんですよね。きっと。」
「まぁそうじゃな。ただ、最近その白神様の縁者とおうてな。あやつも山不死に近しい身である、と言ってな。」
こういう話だった。
あの頃、白神様、いや、白山姫様は、番の相手と生きていくために必死だったそうだ。
文字通り必死。何度も何度も繰り返し繰り返し、同じ時間を渡り歩いては、番の相手を生かすため、一緒に生きるために必死だったそうだ。
そしてある時あの大噴火は、白山姫様の心が挫けてしまった故に起きたものだったそうだ。
私が聞いた白山姫様の声は、そういうことだった。白山姫様も、女の子なのだ。
ついで、この時点で私の数百年越しの片想いは、やむ無く破れたのだ。
けれど白山姫様は諦めず、ついに番の相手と幸せになれたらしい。今はこの山のどこかで、家族を作り、生きているとのことだった。
私と鬼さんのことは覚えてくれていたようで、白山姫様だけでは決して、この山を守れなかったと言っていたらしい。そして、ありがとう、と。
「なんだ。ずるいなぁ。」
私は白山姫様の幸せを知り、つい大泣きするほど、幸せになれたのです。
「更に次いで、熊よ、お前さんが『そうなる』のは、予想値にしなかったそうだ。これも筋肉のおかげさな。」
筋肉かどうかはともかく。
あのとき私は、白山姫様に惹かれ、いや、遣えることができて、本当によかったと思っているのです。
あれから、もう漆百年。
すっかり人にも慣れて、最近は文芸に手をつけ始めた。絵を描いたり、物書きをしたり、時には唄ってみたりと。
パソコンやネットというものも、いつしか使いこなせるようになっていた。便利な世に成ったものだと、しみじみ思う。
たまに熊に戻り野を駆け巡っては、人を襲おうとする同類や獣らに注意したり、今ではすっかり数も減った『異』の相手も、たまにしている。
縁さんは、今は季縁さん、と名乗っているようだ。事故で大ケガをおってしまったから、たまたま出会った人に憑いたそうだけど、不思議なのが季縁さんの昔の姿と瓜二つだったらしい。そもそも名もはじめから「季縁」立ったらしく、憑くどころか「混ざった」と。こういうこともあるんだなぁと、前に話したばかりだった。今は双子のお子さんの面倒見ながら、相変わらずの様子。
そうそう、実は何度か、白姫様とご家族を、お見かけしている。黒い番の方と街を歩いていたり、可愛いお子さんをつれて散歩していたり、と。
その度に、私に気がついているようで、白姫様は手を振ってくれたりする。
初めてお見かけしたときは、心臓が止まるかと思った。まさかそんな、ご家族連れで温泉の脱衣所でぱったりなんて。白姫様もあの頃と変わらない、いや、少し大人っぽくなった気もしていた。
それからというもの、白姫様のご友人とも、今ではたまに顔を合わせることが多くなったのです。天使や魔女、もちろん季縁さんも。
あの頃は見てるだけで、触れられなかったものに、今は、触れられる。
ああ、そうだ。
鬼さんが最期に言ってくれたことがあるんです。
「熊よ。永かったが、主、そろそろ、山を降りてもいいんじゃぞ。白姫様も戻り、人も、今はもう昔と違う。今ではもう安泰じゃし、ワシの筋肉は、もう少ししかもたんが、もういいんじゃ。いつでも戻ってきてもよいし、好きに外の世界をみてきてもよいのだ。
いや、行け。外を知るのも、悪くはないぞ。」
そんなこといわれちゃなぁ。
どうやらわたしは、まだまだ向こうには行けないようだ。
思いきって、野に降りて人としても住まう。永く生きてるし、「いつか」が来るまでは、こういうのもいいかもしれないとも。
それにどうやら、今の世の中、あの頃の『異』は形を変えて趣味趣向として永らえているようで。
ゴムでできた生物、変身するアイスが好きな宇宙人、カフェを営む大天使、呪われた女の子、王の兄妹、戦わなくなった機械の体、などなど。上げるときりがないほどに。
山では絶対に居なかったモノが、今生今の世に、こんなにも楽しく溢れている。
しかもこの中でなら、耳くらい出してても、何も言われることもなし、どうこうあるわけではなし。
と、山から少しばかり離れて、今はひそかに白姫様の物語を創作しながら、いや、書き綴りながら、少しばかりの絵をたしなみ、少し違う身ではあれど、人として、まだ人を眺めていくつもりなのです。これも一つの形として。人の形としても。
人の形。
ああそうだ。私の名前、それにしよう。
これが私の、大事なものなんだから。
鬼さんたちが残してくれた、大事なもの。
そんなことを考えながら。今日も今日とて、ふらっと山へ向かう。
「鬼さん。みなさん。今日も来たよ。」