//おかしな少年と神様の少女//
//母狐の書き方//
2.
かろうじて、「これが文字なんだ」と気づけたのは、私が10歳のころでした。何もかも、先生のおかげ。
文字としてじゃなく、これはそういう絵、と覚えればいい。そもそも文字は、突き詰めると絵の組み合わせなのだから。
そう教えてもらってからは、なんとかできている。けど、普通の人よりは、メモリーを多く使ってしまう、となんとか。
あと、不思議なことに、話すのは大丈夫。言葉もわかるし、普通に意味も通じているし。
けど、それでも、文字は私のことを、嫌ってるようでした。
難読障害、ディスレクシア、というらしい。
初めて聞いたときは、なんかかっこいい名前だなぁと思ったんだけど、とんでもない。本当にとんでもない。
いつからなんだろう、ってのはなくて、私が物心ついたときから、ずっとこうだった。周りが読める文字が、私には「読めない」。
それでなんとか、世間一般公的お情けもあって、かろうじて勉強もできていたし、かろうじて、人並みの生活らしいこともできていたんですけれど。
多分、今日までは。
「し、ら・・・んー・・・……やっぱり、駄目」
まさか私に読める字があろうとは、と、ちょっとした期待を持ったけど、やっぱり、完全解読とはいかなかった。
それでも、普段とは違う感じに、ちょっとした高揚を覚えたのは確か。
きっとこれが、普通に「字を読む」という感覚なんだろう。
絵としてみなければ、あんなにも気持ちが悪くなるというのに。
この「私でも読める字」を見つけたのは、読めないものばかりの、ただのインテリアになっている本棚から見つかった、古いアルバム。
お部屋の掃除をしているかに、それをたまたま見つけて開いてみると、ついつい時間を忘れて見更けていた。
懐かしいなぁ。
で、その中の一枚、私と先生と女の子の後ろ。バス停にかかれているも字がそれだった。そして、この子か話で聞いてた、娘さん、なのかな。
おどおどしてる私と、そんな私を不思議そうに見ている子。二人の後ろにいるのが先生。
後ろの山が色づいているのを見ると、丁度今の時期と同じ頃かな。
ただ、困ったことに、この写真をいつとったのか、全く覚えがない。この場所も、私の知らない風景。
何かヒントはないかと裏返してみると、とった日付とおもわれる字がメモされていた。えぇっと…じゅ、う……あ、もう10年も前に、とったみたいだけれども…。
……うーん…本当に思い出せない。他の写真は分かるんだけど…。
実はこの女の子、私じゃないとか、というのも考えてみたのだけども、この子は確実に私だと思う。思えることをしている。
なぜなら、今と同じように、眉毛、かくしてるもの。今でこそってほどでもないけど、子供の頃は「芋虫まゆー」なんて、同じ幼稚園の男子に、よくいじめられたものだったからだ。それに加えて字が読めないってこともあり、という具合だ。今でこそ、いい思い出だと思うようになったのは、これも、いつの間にか。
あ、10年ということは、私のとなりにいるこの子は、たぶん今ごろ、私と同じ位の年になんだ。
きっと見かけたら、先生の子供だと分かるかもしれない。こんなにも先生に似ているんだし、それに、写真越しに伺えるふんわりとした雰囲気も、どことなく先生みたいだった。
さてと、この子も気にはなるのだけれども、本題に戻りますか。
私の本題は、バス停の文字のことではなくて、本当の本題。そうです、私はお部屋の掃除の途中なのです。
その写真だけをアルバムから取り出して、私は元の本棚にアルバムをすっと置き直す。寝てたのに中まで覗いて悪かったとは思うけども、文字として思い出を残せないのだから、写真くらい私に優しくしてもいいじゃないと、思わず苦笑いした。
さて、そろそろ始めませう。下着姿(これが私の部屋着)で手には破れたストッキングと割りばし。埃は凡て遺さず除去するべし、です。
こんな人並みなことをしていたのが、昼過ぎ。
そして今は夕方。いわゆる、逢魔が時というような時間なんだろう。林の奥は青暗く、夕焼けと夜のグラデーションが、余計に私の心を怖さで焦らせる。
ここから早く出なければ。けど何処から、どうやって帰れば。
何度転びかけたか。足元が悪い上に、走るなんて慣れない事をするもんだから、息が上がってしまっていた。ふらふらとした足取りで、なんとか木に寄りかかると、心臓の鼓動が耳鳴りのように響き始める。地響きかと思うくらい。
しかも動くのを止めたことで、全身から吹き出るような汗が、私の体にまとわりつく。熱い。汗で下着が気持ち悪い。ふわふわもふもふのセーターを着込んでいることもあって、余計熱い。ああ部屋にいればすぐ脱ぐのに。
ガサガサ。
枯れ草の地面を、さっそうと駆ける音。
来た。
追ってきた。
足音のテンポも早く、とても軽い。
人じゃない。獣か何か。
その音が聞こえると、心臓の鼓動が止まったかと錯覚してしまうほど、他の音が聞こえなくなった。
怖さで吹き出た汗が、一気に冷や汗に変わると、火照った体も急激に冷めていくのを実感した。
早く、逃げなければ。
そうは意識してみても、震え始めた体が言うことを聞いてくれない。
カサ。
あぁ、足音が、私の真後ろで、止まった。
震えながら、ゆっくりと、振り向く。そこには暗闇に浮かぶ目が4つ。2匹の、獣。夕焼けの空色を写し、その目をより一層彩る。
「ぁ」
それを目の当たりにして、私の口から息が漏れた。綺麗なのと、怖いのと、もうダメだと。
それと同時に、私の視界から突然、残り少ない光が消えた。
首と、おなかに、とても強い力で何かが食いついたのを感じて、そのまま、意識がふっと、失せていった。